中里・地名の由来

日本に里のつく地名は多い。それは一つの理由から考えられる。
大化改新(645)中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼし新しい国家態勢を堅てた。地方行政区画として国郡の制が出来、国の下に郡、郡の下に里があった。(国の上には都、又は京)
国名として今も、大和、武蔵、信濃などが有名だが、ちなみに横須賀は相模の国、三浦郡だった。未だに葉山方面には三浦郡が残る。そして里が末端行政区画としてあるが、これは田の面積でもある。
6町x6町=36町を一区画一里とし、一里を“ます目”の様に並べた土地の縦の筋と“条”の横の筋を“里”と呼び、碁板の目を読むように、その土地を何条何里と特定した(条里制)しかし全国で同じ伝わり方をしたのではなく、色々な呼ばれ方が生じた。
例えば“一条一里、上の里”のように固有名詞をつけたものもあった。そのようなわけで中の里も下の里も生まれたらしい。
神奈川県逗子市にも中里、神奈川県横須賀市秋谷に台里、須軽谷に上ノ里、下ノ里、深田に台里、野比に入ノ里、井ノ里など古い地名があったと伝えられている。
条里制の田と直接結びつくかどうかは不明だが、遠因はあると思われる。
ちなみに一里は36町で、1町分の面積を坪と呼び、一の坪から三六の坪までを番地をつけた。中原街道の一の坪や市の坪も、また坪のつく地名も生まれたが、このことに由来する。
上町にも豊ノ坪、逗子にも小坪がある。そして中里通り商店街の辺は“中ノ坪”と呼ばれていたと伝えられている。
商店の建っている土地は、たしかにかつて田んぼで建築工事の時、田の畔の粘土が見られたり、豊富にあふれる水が未だに工事の人達を悩ましている。
古代式に云えば中里通り商店街の住所は、相模国三浦郡○条○里、中里、中ノ坪と云われていたかも知れない。いつの頃からかは分からぬが明治22年まで中里村があり、昭和25年までの一時期中里町があった。そして今は俗称が正式名称となり上町となっている。
全国にある中里とほぼ同じ理由で呼ばれるようになったと思われますが、不備な点や、お気付きのことがありましたらご指摘下さい。
より正確な情報にしたいと思ってますので、よろしくお願い申し上げます。

 
中里通り商店会 会長 吉田 直弘
 
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